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今はほとんど指さない将棋ファンです。角換りを中心に思うところを書いていきたいと思います。

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“神々の黄昏”となるのか? ~第2回電王戦開幕
今日午前9時30分からいよいよ第2回電王戦の第1戦、(先手)阿部光四段ー習甦戦が開始される。
コンピュータソフトとプロ棋士が5対5で対決するというこの画期的な興行は、故米長前将棋連盟会長の遺産であり、出場する5人の棋士にとっては昨年敗れた前会長の弔い合戦と意気込んでいることだろう。

ニコニコ生放送で完全中継されることで、マスコミをはじめ従来の将棋ファンの枠を超えた注目を集めているのは、さすがアイデアマンだった米長前会長が心血を注いだだけのことはある、と感心する。とはいえ今現在の将棋ソフトの強さを考えるとあと1~2年早く行っておれば良かったのでは…と思わざるを得ない。

2007年3月21日に大和証券杯の特別企画で渡辺竜王とボナンザが対決した時、ボナンザの予想外の強さにその実力のほどがうかがえた。あれからちょうど6年が経過したが、この間プロ棋士との公式対決が行われなかった。これはもちろんプロの権威を保とうとする米長前会長が対局を禁止したからなのだが、その6年の間にコンピュータソフトの進化が加速度を増し、コンピュータソフト選手権で上位を占めるいくつかのソフトはもはやプロ並みの実力を持つと言われている。私が「1~2年早く行っておれば」と思ったのは、その時期であればコンピュータソフトに対してもプロがその実力を誇示できたのではないか、今の時点で5対5の対決を行えば、プロ棋士が負け越す可能性も相当あるのではないか、と危惧するからである。

私は古くからの将棋ファンで、もちろんプロ棋士は尊敬しているし、ファンとして将棋ソフトに負けてもらいたくないという気持ちも大いにある。しかし、彼我の状況を冷静に分析すると、今回はプロが負け越すのではないか、と予想している。2-3かひょっとして1-4もありうるのではないか(悲観的すぎるだろうか)。

仮にプロが負け越した場合、今後のプロ棋士の在り方、存在意義はどう変わってくるのか。今でさえ、タイトル戦の終盤戦では詰みのあるなしをソフトで解析するのがあたりまえになっているのに、将来は中盤の指し手ですら将棋ソフトの“正解”が幅を利かすようになってしまうのだろうか…。

現在の状況は、ちょうど19世紀に写真が大衆化した時代の西洋美術界と似ているのではないか。

ダゲレオタイプは、産業革命の頃の中産階級の肖像画が欲しいという需要に応えるため、1840年代のヨーロッパに熱狂的に広まった。この肖像画需要は、油彩画では生産の速度からして需要に応えきれず、写真技術の発展を後押しすることになった。(ウィキペディア「写真史」より抜粋)



絵具が発達し、絵画の教育システムが確立し、絵画が産業化していく一方で、1827年に写真が発明される。写真は瞬く間に改良されて、肖像写真として利用されるようになる。 正確に描写するだけなら、絵画より写真の方がはるかに正確で安価で納期が早い。写真が普及し始めると画家たちが職にあぶれるようになった。 また、瞬間をとらえた写真の映像は、当時の人々にとって全く新しい視覚であり、新たなインスピレーションを画家たちに与えることになった。(ウィキペディア「印象派」より抜粋)



それまで絵具で本物にそっくりの絵を描き上げる職人だった絵描きが、写真の発明によってその存在意義を問われる中で生まれてきたのが印象派をはじめとするモダンアートである。真実を写し取ることは写真にはかなわない、という現実を受け入れたうえで、画家は新しい表現を模索していき、写真では表現できない「油絵ならでは」の新しいアートを生み出していった。

コンピュータソフトに追われる中で、プロが将棋の“神”として崇められる時代の終焉がもうそこまできているのではないか。神々の黄昏の時代、プロ棋士が過酷な時代の変化にどう対応して行くのかを注目したい。










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